異常気象という言葉に隠された無責任
異常気象だと事あるごとに騒がれる。通常の天気とは違っている、大変だ。という驚きを「異常」と言う言葉に乗せている。「異常だ」「異常だ」というと、あたかも大変なことが「起きている」ような錯覚を覚え、なにごともうまく行かないことを「異常」で片付けようとする。
たしかに、現在の気象状況は過去10年を通して比較すると異なっていることは確かだ。平均気温も徐々に(コンマいくらの話だが)上がってきている。しかし、異常だからしょうがない、という意味合いをこの異常気象ということばに入れて、自分たちの責任を逃れようとしているように思われる。異常気象を引き起こした原因は我々ひとりひとりなのにもかかわらず。
異常気象は「起きた」のではなく、我々が日常生活、社会活動を通して「引き起こした」ものである。決して他人事になってはいけない。温暖化防止のために、クールビズなどで冷房設定温度を上げるなど、これまた当然の行動である、温暖化防止のために貢献しているなどと自分の行動を美化するようなことは言ってはいけないのだ。自分たちで起こした現象をいかに軽減し、さらには無くして行くか、我々の使命である。
異常気象という異常という言葉は、あまりにも我々を環境を破壊している当事者である意識を薄めている悪い言葉だ。その言葉に頼ることなく、少しでも異常に対して一人ひとりが危機感をもって対応してゆきたいものだ。